昭和47年09月11日 朝の御理解



 御理解 第79節
 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」

 なかなかこれを実行すると言うことは、難しい事です。けれども教祖様は、お百姓でお有りになるのであるのですけれども。商売の一番繁盛する様体こつをね、知ってられると思いますね。これはもう商売繁盛の絶対のこつです。良い品物をしかも安く売ると言うのですから。これなら絶対お客さんが付かない筈がないです。絶対と分かっておりながら、実際は本当に難しいのです。安い品物を高く売ると。とにかく商売には儲けなければならない。と言うて目先の儲かりの事だけを頭に置く。
 ですから如何にもそれは、儲かった様であるけれども、本当の儲かりになっていない。ここでは、私は本当の儲かり本当の利益。信心させて頂くなら、神様にお喜び頂けるような商売がしたい。神様にお喜びを頂けるような商売をさせて頂くから、商売は繁盛すると言う、繁盛でなからなければいけないと思う。私も一角の商売人と自分でそれを目指して、小さい時から商売の稽古をさせて頂きましたが。もう本当にこういう素晴らしい御教えがあるにも拘らず、御教えを行じ切っていないですね。
 例えば商売が上手と言う。売ると言う事などはね。誰よりも余計売ったかも知れませんけれども。結局の所はそれは本当の利益になっとりませんもんね。そん時は儲かる。余計売っとりますけどもね。人よりも例えば十銭の物を十一銭で売れば、一銭は余計儲かっとるし、それをむごう言うてから、一つ売るとを二つ売り付ける様な生き方をするから。値段も高う売る売るとも余計売るなら、儲かる事は当たり前んごたるけれども、実際は一つも儲かっていないと言うこと。
 夕べ、お月次祭を終わらせて頂いてから、五六人の方達が残って、御造営の事やら調度品の事やらの話があっとりました。それから色々お話をしておりまして、お茶でも頂きながら言いよりましたら、もう十二時半になっとりました。こらもう早う休まにゃち言うてから、休ませて頂いた。例の通り、久富さんと文男さんと、足を揉みに御用にやって来てくれましたから。足揉んで貰いながらです。
 昨日、遅うでしたけれども、お月次祭が済んでから、善導寺の岸さんと言う、京染屋さんがあります。京染屋さんと言うよりも、呉服屋さんですね。その方が文男さんを訪ねて見えとりましてから、その話を文男さんがするんですよ。この人はとっても商売が上手と言う。もう私はこの人に教えられた事が、どのくらいあるか分からないと言うて、本当に、売り場買い場を大事にされて、しかも商売が人がね二十分も、三十分も掛かる様な商いを、例えば十分で片付けると言う。
 そして本当にピシッと決まって行くち言う訳ですね。お商売が上手だとこういう訳です。そういう話からでした。もうとにかく大橋とどっちじゃろうかと。秋永先生の事ですよ。と言うくらいに上手と。全然行き方は違う。けれども商売が上手とと言う様な話からでした。文男さんが、こういうことを言うんですよね。大橋は偉いとこう言うんです。あれほど、色々な問題を抱えながらですね。
 商売をそういうことが全然ない様にしてやっていく。私なら一つの問題を持っとったっちゃ商売は出来んでしょうと、こういう事を言ってました。ちょっと心配事があったら、もう商売は駄目。私共は本当にそうですよね。商売をする気色がせん。商売はどげんでん良かごつなってくる。しかも一つじゃない二つじゃない。様々な問題を大橋は抱えながらです。ようあれで商売が出来る。とにかく大橋は偉いと言うて、兄さんの事をそう言うて、褒めちぎっているですね。勿論信心がなからなきゃ出来るこっじゃない。
 信心がある私でもです。例えば私ならとてもあの一つの問題でも抱えておるなら、とてもあげな商売は出来んと、こう言う。私はおおなか背に寝ながら、久富さんと文男先生が、両方の足をこうやって揉んでくれとるですから、私はおおなか背にこうなっとる。そしたら、天井にねスポット宛ててそこに何かが浮き出すように、私が頂いたのは松という字でした。その松という字が、大きくこの木辺というものを、大きく書いてあるですね。そして横に公という字。
 その公という字を、実にもっとらっとした活字でですね、公という字を書いてある。私はちょっと書いてみましょう。こんな風にね釣り合いが取れない。木辺を大きく頂いて、公という字を小さく頂いた。今文男先生が言うておる事がとにかく大橋は偉いと。あれだけの問題を抱えながらです。商売をやって行くと。これは大体商売好きな者。私共は商売が好きでしたからね。もやもやする様な事があるけれども、自転車に乗って、昔は自転車ばかりでしたから。後ろに一杯お酒積んで。
 外へ出て二三分も踏んで行きよるとです、忘れてしまいよりましたですね難儀な問題は。もう商売の方へ一途になってしまう。というくらいに、商売が好きでしたから。秋永先生なんかも商売が好きだからという意味じゃないようですね。秋永先生が場合は。これは神様を信ずる力が、段々大きくなってきたからです。昨日は本当におかげの泉を、今月号はまだですかとか。おかげの泉によって、こうしておかげを頂いておる。それはしかも教会の先生方から手紙が来ておる。
 末永さん宛てに手紙が来ておったのなんかは、毎日の朝の教話をね、おかげの泉から頂いて、私の方の教会では、おかげの泉がなしには出来ないほどしに、おかげを頂いておるという意味の事を書いて来とりますと言うてから、お届けしております中にですね。私は、末永さんが言うことを、ちょっと忘れましたけれども。おかげの泉を頂かせて頂く様になってから、分からせて頂いた事は、願った事が成就しない事。その事に非常に有り難いものを感じますと言うてる。
 私はそういう意味の事を覚えとるね。「おかげを下さる神様よりも、難儀を下さる神様が有難うなりました」と言うておるです。私はもう、それを聞いとってから、体が震うごと感動しました。なぜって、それが本当なんだからですよ。おかげを下さる神様よりもです、難儀を下さる神様の方が有難うなって来た。それも、おかげの泉を読ませて頂いておるおかげだと、こう言うのです。私は、秋永先生が場合なんかもですね。いうならば、その事じゃないかと思うです。
 これは昔でしたけれども、神様が今おかげを下さると、例えば言うならです。神様、しばらく待って下さいと言うだろうと言う意味の事を、秋永先生何時か言った事があります。もうこりゃ、十何年も前の話だったです。その事なんです。おかげを下さる神様よりも、難儀を下さる神様が有難うなって来たと。何と素晴らしいことだと思う。私はね信心がね、本当なものになって来たということは、そういうことだと思うですね。そらお参りしなさい、そらおかげ頂くばい。と言うのではなくてです。
 神様の心が分からせて貰うと言うこと。晩義を下さる神様が有難いと言うところ。あれほどの様々な、これは文男さんが大橋を見てからですよ。私が見とってもあの事、この事、一つ二つじゃないて。そしてほんなら皆さんもご承知の通り、合楽に出てきてから、難儀を色々抱えておると言う風には一つも見えない。ここへ来ると一番に相談しなければならない私がですよ。問題が幾つもある。それに応えて回らなければならない。総代以上の総代として、言うなら信徒会長としての御用は、皆さんのご承知の通り。
 ここで内外とまでの御用。永瀬さんと、秋永先生と決まっとる外側の方の。他の総代達はまぁ知らん振りしとる訳でもなかろうけれども、積極的に御用をしない。結局秋永先生が行かなきゃならん、永瀬さんが行きなさらにゃならんと言うことになっておる。私は、今日は、そこん所をですね。体はちびるものでないから働くがよいということはね。商売させて頂くなら、商売に出たならば、一生懸命に働かにゃならんです。
 けれどもここん所は、神の用を氏子が足せば、氏子の用は、神が足してやるというそのところの働きを、はぁ本当に家の事もせにゃならんとに、教会へ行くと教会の事もせにゃならんと言うのじゃなくて、その事を体はちびるもんじゃないから、神様の御用に一生懸命、お役に立たせて頂こうと言うことだと思うんです。私が文男さんが大橋は偉いと。大橋と言うのは、所の事を言いよる。秋永先生が文男先生の事を呼ぶ時には、練塀町と言うでしょう。そういう意味なんです。大橋は偉いと。
 あれだけの問題を抱えながらです。何もない事の様にして商売をやっているという。とても、私どんじゃ出来るこっじゃない。私なら一つの問題でも、それが引っ掛かって、とても商売する気にはなれないと言うのです。その事を私はこうやって足揉んで貰いながら聞かせて頂いておったら。天井に頂くんですよ上向いとるもんじゃけん。松の字を頂く。そして木辺を大きく書いて、公と言う字を小さく楷書で。実に、もっとらっとした字で頂きましたんですけれどね。
 そして次に頂く事が、肺活力と言うことを、御理解の様に頂きました肺活力。例えばもう窒息しそうな中に合ってもです。肺活力が強い人は楽なんです。もう肺の悪い人なんかは、ちょっと空気の悪いところへ行ったって、胸が持てんごつなってくる、肺活力がないからです。秋永先生は肺活力が、誰よりも強い訳です。肺活力とはどういうことだと思うですか。ハイと言うことは私は、素直だと言うことだと思うです。神様の前に従順だと言う事です。いわゆる、親先生任せです。
 元は御本部に行かなければならん。本部から直接秋永先生に手紙が来てるんです。入殿がある。この忙しいのにと言う所なんです。と言うてほんなら代わりに誰か行ってくれと言う。ちょっと他にはなかです実際は。ですからこげんして通知が来とりますから、同道して頂きましょうかと。そりゃやっぱあんたが行かにゃ出来んでしょうなと言うたら、ハイと言える人なんです。こりゃもうその事だけじゃない。一事が万事に今日までいわば、ハイと言うて来た訳ですね。親先生任せになって来た。
 なるほどおかげも頂いておる。けれども、秋永先生の周辺には、何時もその様な問題がある訳ですね難儀が。普通で言うなら難儀です。けれども段々分からせて頂いた事は、おかげを下さる神様よりも、難儀を下さる神様が有り難いということが、段々分かって来た、と言うところ。そこで本気での体はちびるものではない。これは高橋さんが、何時も言われるけども、秋永先生には適わんち言う。実にタフだと言う訳です。例えばもう今日はきつかけんこれで止めとこうかと、私が若い者が思うのにです。
 うんにゃこれでいっちょ、片附けとこうと言う生き方だと、こう言う訳なんです。タフなんですね。体はちびるもんじゃない。神様の御用をさせて頂くのにです。一生懸命御用をさせて頂くと言うことでです。体はちびるもんじゃないという事の、いうならば自信が、段々出来て来たということにもなるでしょう。勿論神様の用をすりゃ氏子の用は、神様が足してやると仰るが。本当にそうだと言う、神様を信ずる心も、段々強うなって来た。肺活力と言うのは、そういうことだと思うですね。
 神様の前にハイと言えれる、活というのは生き生きとしたという生活の活が書いてありますね。確かそうだったでしょう。高橋さんそうですかね。生き生きとした心でハイと言えれる力が、段々誰よりも強うなって来たとこういう事なんです。私は今日はこの七十九節をです。商売をするなら買い場売り場と言うてとこう仰る。例えば今みなさんに聞いて頂いた。そういう信心が出来てから、ここがなされなければ駄目だ。だからその前提の所を言ってるんです。売るとか買うとかという事の前提なんですまだ。
 そこん所が分からせて頂いて、教祖様が仰る、売り場、買い場を大事にする。人が十銭で売るものが、八銭で売るという様な信心が出来るようになった時です。これはもう、あれよあれよという様なおかげになる事を、私は確信しますね。商売繁盛のおかげを頂くというのはね。どうぞ今日も商売の繁盛をさせて下さいと言うて、繁盛したおかげは、それは、おかげですから消えますよ。昨日、北野の上野さんじゃないけれども。今日はどうも、商売の方がゆっくりあるなぁと。
まぁほんなごと和賀心を忘れておったと思うてから、三遍唱えると必ずおかげになるち言う。昨日はとにかく商売が繁盛せん時には、心が暗うなっとるち言う。それで天地書付を唱えると心が白うなる感じがすると言うて、善導寺のお母さんに話したと言う。いわば信心の初歩ですまぁだ。だから繁盛はね例えば言うたり、思うたりしただけでも繁盛に繋がるおかげは受けられるです。けれどもそれは本当のおかげじゃないて。それはちょっと油断すりゃ、もうスーッと消えてしまう様なおかげなんです。
 そういう意味での体験なら、毎日そこの中村食堂の中村さんなんかは、体験しておる訳ですね。是は毎日中村さんの体験です。だからその事がいわば有り難うして、朝のお参りが、今日はどげなご理解頂くじゃろうかと言うのが、楽しみでたまらんとこう言う。それを行じさえすりゃ商売の方が、万事にお繰り合わせを頂くとこう言うんです。ですから私は本当の意味でです。動かない確固たる儲けと言うかね。利益と言うか所謂商売繁盛と言うかのおかげを頂く為には、只今私がみなさんに聞いて頂いた様な所がです。
 根底となってからの繁盛でなからなければ、ただまた売れたまた売れたと言うだけの繁盛ではいけん。そうですよ。ただ商売が信心しておかげを頂いておると言うのは、どうしても調子が軽うなります。そこにおかげを落とす元が出来るのです。それこそまた売れた、また売れたで、股が売れたから、金玉の宿替えち言うごたる事になる訳ですたい。もう絶対そうです。ただ売れた売れただけのおかげだけなら。
 それこそ右と願うても左、左と願うても右と。そこから神意を悟り神愛を分からせて頂いてです。おかげを下さる神様よりも、難儀を下さる神様の方が有り難いという様な、本当な信心が身についてから。そして教祖が仰るように十銭で売るものは八銭で売る。仕入れの元または売り場と言うものを、実意丁寧大事にさせて頂く。しかも体はちびるもんではないから。例えば高橋さんじゃないけれども、それこそあれだけの商売をさせて頂きながら、合楽におられる時間の方が多いという様なです。
 これは体はちびれるもんではないからです。一生懸命御用しとりゃなるほど、氏子の用は神が足して下さるという、おかげになってくるのです。そこでですほんなら私が、文男さんが話を聞きながら、天井に頂いたという木辺に公という字の事なんです。本当に神様は厳しい。昨日一昨日の久富勇さんところの宅祭りじゃないけれども。言うならば合楽で一番今貧乏しとりなさるち言うなら、久富さん一家じゃなかろうかと思うですね。一番難儀ち言うならばもう一番難儀だろうと思うですね。
 しかも五体が動かん様に夫婦ながら、あんな状態でしょう。立ちもしゃがみも出来ん様な状態。それで例えばそれこそ本当に割れるようなお祭りでしたよ。私は本当に思いました。どうしてこげなことせんならんかということ。とても大盛りなら鰤なら鰤、鯛なら鯛そして、昨日から聞いてみるとです。なるほど私の方には、分が過ぎたお祭りでしたけれどもです。例えば鰤なら鰤一本を頼んでおったところが、何所もなかったて。ただ魚屋に一軒だけあったのが、あの鰤だったとこう言う訳です。
 例えば瓶物なら瓶物でもです。ああいう高価な洋酒類ば、お供えせんでん、まぁビールならビールも沢山お供えが来とったから、あれで良いじゃないかと。さぁご直会と言や本当にほんなごて、馬鹿じゃなかじゃろうかち。ちゃんと決まっとるとじゃからね。お吸い物お刺身、酢の物だけで良いところを、そげんせにゃいけんと、決まっとるとにいいえ、今日だけはそげんして下さいち言うてから、また一人一人の洋食皿に盛った、言うならおご馳走が出来ておった。
 私どもが夕食を頂く時なんかは、それこそ沢山なおご馳走をしてある上に、このくらいな鯛の焼き物が、一人一匹ずつ座っておった。だから私が言いました。こげなこつしてからもう一匹据えりゃよかて。ある事はわかっとるけんあちさんやりなさいち私が。もうそりゃ本当にふうとくのう申しました。なしかて状態を知ってる。借金は負い被って収入はない。畑ち言うたらそれこそ勇さんがたんところの畑は、草ぼうぼうでね手のつけ様がなかごとあるそうです。そうでしょう夫婦が出られんのだもん。
 長女は勤めに出とる。一人はまだ学校でしょう。そういう中にどうしてこげなことばせんならんかと。と言うのが昨日の御理解から申しますとですたい。沢山な時間と金を費やして、そげん毎月毎月参ってこんで良いぞと、近藤藤守先生に仰った。それなんですだからこれは教祖の実感なんです。駆け引きで言いよんなさったっじゃないです。私もそうです。こげなことしてからこげなことするこつが要るのち。
 言うなら私の実感なんです。けれども、近藤藤守先生がです病むに病まれんこれだけは、お許しくださいと言うてしたんです。山口の唐樋先生の場合には、ほんなら毎月参ってこんでん良いよと仰った。それから何時とはなしに、段々教会が寂れて行った。それこそ、教会の屋根にはペンペン草が生える様になったと言われております。だからね人間が、ちょっと楽になるとかね。楽な方へちょっと足を踏み込んだらもうそれからずるずると、楽の方へ楽の方へと信心がドライになります。神様は御承知じゃからと。
 私は今朝から引っ掛かってたまらん事がございましたけれど、若先生が月次祭が済んでから、ここにお届けをするのにです。私は例えば久富繁雄久富久子と、家族中のお届けがしてあるから必ず正確に書くのです。ところが若先生はですねもう一つも書かんです。ただ一人だけ久富と書いたら、後は名前だけトントントントンと、こう書いとるだけです。こう言う事でそれこそ本当に布教の苦労と言うものを全然知らんから。
 もう一人でも、いや、子供でも参ってきたら、有り難うして応えんち言うごたるところを通っとらんもんですから。こういう実意のない事をするなと思うて、私は、それが本当に、淋しいと言うよりも、悲しい思いがしましたです。だから私は今日はまた改めて、全部書き直しました上に。それは考えようじゃですね。例えば久富繁雄他だけでも、神様は御承知なんです、書かんてっちゃ。けれどもそれではね、私が昨日から申します信心にはならんのです。もうこん忙しかつに、参ってこんでんよかがのち。
 そうですねち。御用もやっぱ信心ですからと、いう事に言うたらですね。それは必ず楽な方へ楽な方へなってくるです。だから少し古風なごとあるけれども、やはり近藤藤守先生の信心を、私共は取らせて頂くべきだとこう思うです。そこでそのいわゆる木辺を大きくした、公という字を小さくした、松の字ですけれどもです。この木辺に釣り合うた、公という字が書けた時に、本当の松が出来るのです。高橋さんやら秋永先生を例に取りましてからこれほどしの御用が出来とる。
 こりゃ直接神様の御用が出来ておる。これをまぁ公と致しましょうか。けれどもね勇さんに、昨日の方についてこげなこつするこつが要ろうかいと。神様にその事を私がお願いさせて頂いたらです。言うなら貧乏の骨頂と言うか、一番最低の時に程真心は、一生懸命の物が出せるということを頂いたです。もう貧乏しとるこつは神様が知っちゃるけん、もうこのくらいで良かろうと。これはもう絶対昨日も申します様に、十万円の宅祭りが出来るようになったっちゃです。出来るごつなれば出来るごつなる程もうこのくらいで良かろうに、必ずなるです。
 だからその時はそれで良いとしてもです。信心のまぁだ基礎を作る時。根底の所を行じさせて貰う時に、今が苦労の真ん中と言う時にです。これは本当にそうですよ。財布の中に例えばもう千円しかなか、もうこれぎりだと言う時に、その千円をそのままお供えする事は簡単に出来るでしょうが。十万円財布の中に入っとる余裕がある。絶対ある切りお供えするち言うことは出来んです。ある切りのお供えをさせて貰えれる様な、絶好のチャンスを久富さん達は、恵まれてあるのだから。
 例えあのお祭りを人間大坪が見た時には、そげんせんでんと言う。教祖生神金光大神は、人間教祖が仰る時には、そげん繁々と参ってこんでん良か、沢山な金を使うてからと。しかも声荒らげて言うておられる。それでも病むに病まれん、いやこれだけはお許しくださいという生き方の上にです。おかげが受けられる様にです。本当の意味でのおかげが受けられるようにです。私はこの松の字を頂いてから、それを思うた。
 このいわば木辺に、この公という字が、これに釣り合うた公の字が書けるようになった時に、本当の松だ、本当の信心だ、本当のおかげが、これからだと言うことなんです。して見ると、秋永先生が一生懸命公の事、いうならば教会の事、神様の御用に打ち込んどるけど、まぁだまぁだ神様の目からご覧になりゃ、小さいち言うことですから。して見ると皆さんの場合は、どういうことになるだろうかと。本当な事の信心が本当の信心が分かって来た、身について来たというならばです。
 難儀を下さる神様が、有難いと分からせて頂く様なところから。そしてこと神様の御用であるならばです。それは借金を負うてからでも、質、八入れてからでもという様な信心が出来る時。神様の御用と言や何をおいてでも、神様の御用の方を先に取らせて頂くと言う様な生き方がです。例えばほんなら、秋永先生の場合でも、高橋さんの場合でも、出来とるごたるけれどもです。出来とるです。
 小さい甲の字じゃあるばってん、まぁだこまかこまかち言いよりなさる。まぁだあるとです、まぁだ頂きようがあるとです。そこん所を私は極めて行く。そういう基礎が出来てからです。ここん所のおかげをですね。人が十銭で売るなら、八銭で売れるようになった時に、繁盛する繁盛がこれこそ、これは代まさりの繁盛のおかげに繋がるおかげだと言うことを、今日は、聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。